音・oto・おと

 

       

 

    戯・gi・たわむれ

        

        

    

    噺・banashi・はなす


                                                                                                    音楽と手を繋ごう

 


 

    音戯噺は音楽を必要としている

          あなたの傍にいます


 

 

 

音戯噺の活動

◆世代を繋ぐコンサート

 

「せだいをつなぐコンサート」

どの世代も楽しめるコンサートを!

0歳から100歳までがそろったコンサートでは4世代が集合した家庭もありました。

世代を繋ぐコンサートではトーク付きで楽しいコンサート空間を演出。

クラシックのなじみのあるナンバーや日本の童謡などを演奏。地元のブラスバンドや楽団との共演やダンサーとのコラボレーションも企画!

全国各地で展開していきます。


 

◆幼稚園で大人も聴けるコンサート

 

「コンサートは子供が大きくなってからね。落ち着いてゆっくり聞きたいから・・・。」


これからは幼稚園でおとなもコンサートを楽しめるのです。

お子様を安心して預けられる場所である幼稚園で、二部構成のコンサートを企画しました。

幼稚園側の協力により、大人も楽しめるコンサートが可能になったのです。

音戯噺では、親が子供と離れてリラックスする時間を幼稚園と共に創ります。


Ⅰ部 園児へのトーク付コンサート

Ⅱ部 大人のためのクラシックコンサート

 

  例)ピアノと絵本とのコラボ

    音あそび 

    ドイツのおはなし

    音楽教育についてのトーク

    アーティストとのコラボ

   


その他のコンサート例

  • 親子一緒に聞くコンサート
  • クリスマスコンサート
  • お別れコンサート 


◆医療施設でのコンサート

 

2014年3月から続けて、私は祖母と母を亡くしました。

今まで、福岡の祖母と千葉の母の側でたくさんの医療施設に足を運び介護を続けていました。

身体も心もちぎれるほどの日々でしたが、2015年4月に病院で演奏をして思ったことがあります。

病院は、介護の立場で戦っている人。

そして、勿論、日々病と闘っている人。

その中には、一歩も外に出られない人。

明日、命が終わってしまうかもしれない人も・・・。

祖母も、母もその人でした。

そして、介護側の私もその人でした。

 

人はその人にならないとわからない。

 

だから、私は今、病院で弾くと決めました。

 

点滴が終わっても席を立たない人。

目を瞑りながら祈るように聞いている人。

車椅子の人。下まで降りられず二階で聴いている人。

人が倒れても気づかずに音に集中している人たち。

 

私は弾きながら感動したのです、とても。

何度も涙ぐんでどうしようもなかった。

 

「祈りの詩」は私の音なのに、私に響きました。

 

2015年より、音戯噺は医療施設とも繋がってゆきます。

どこへでも、弾きに行きたいと思っています。


◆出張ホームコンサート

 

誰かの為のコンサートを御一緒に企画します。

プランはありません。

あなたと演者で創ります。


 

コンサート例

  

  スクラップブッキングとピアノの癒しの空間

  絵本とピアノのコラボ

    在宅のお年寄りへ童謡と語り

 

一緒に笑う

     一緒に躍る

          一緒に描く

 

音戯噺では、表現者と一体となってコンサートを創ります。

 

「こどものころに夢みたせかい」と題して、音+otoしてゆきます。


今まで、詩人・作家・絵本作家・映像作家・ライブペインター・ダンサー・俳優等とコラボレーションしてきました。

音で広がるせかいを、みなさん一緒に創りましょう!



 

音戯噺は、音楽家、ダンサー、書家、画家、絵本作家、クラフト作家達と一緒にワークができる環境作りを応援します。

 



 

 

音戯噺/AZUMI PIANO

 


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祖母の耳は遠い。

遠いけど身体にある

たくさんつまった音の記憶。

 

 

母が大きな声で祖母に言う。

「あづみよ。ドイツからよ。」

 

何度も言うけれど、何度も聞き返す。

 

しょうがないので私は弾き始める。

 

祖母の顔がパソコンから見える。

 

母がまた大声で言う。

「あづみよ。聴こえる?」

 

耳のそばで言う母に

 

「ちょっと!しーっ。ショパンのワルツ、

 

聴こえんようになるばい。」

 

祖母が言った。

 

母の驚いた顔。

 

祖母の肩は楽しそうに揺れる。

 

遠いドイツの小さな部屋のピアノの音が、

 

祖母の耳に届く。

 

私は泣きながら弾く。

 

あぁ、私はわかってなんてなかったんだ。

 

全然わかってなんてなかったんだ。

 

音は耳が聞くんだと今までずっと思ってた。

 

私の身体を湧きあがる熱。

 

そしてそれをひんやりと許すあの祈りの音楽。

 

音を伝えたい。

 

あのあったかい手のひらの中にそっと。

 

音を届けたい。

 

 

さぁ。

おとぎばなしを聴こう。

 

しわくちゃの手を握って

 

からだじゅうであなたと聴こう。

 

 

 

 

音戯噺:おとぎばなしができるまで 1

「音戯噺:おとぎばなし」の構想は実はもう10年くらい前から私の身体にありました。

 

日本に住む長年の友人が、子供が泣きやまないときにはいつ何時でもドイツに電話をしてくるという時期があったのです。

 

「ちょっと、アレ早く!お願い!もう、ずっとこんな感じなの!泣き止まない!」

こちらは午後ですが、日本は真夜中。

私は急いでピアノの前に座り、アレを弾きます。

アレ、とはかの有名なモーツァルトのトルコ行進曲。

「あなたのじゃなくちゃ泣き止まないの・・・。」だそう。

 

子育てに疲れて、髪を振り乱した彼女が次にリクエストする曲は、ドビュッシーの月の光でした。

子供を抱きしめながら「あぁ癒される・・・」

月の光、アラベスク、モーツァルトのアダージョなどを弾き続け、気がつけばすやすやと寝息が聞こえてきます。あぁ。よかった。

私は、その彼女の寝息が聞こえてくるとほぉっとひと安心するのでした。

 

その後も、子供を持つ友人が増えていく度に、

「子育てでもう、どこにも行けてない。ピアノのコンサート子連れは無理でしょ?」

「未就学児は入れないから・・・。」

 

行きたいコンサートにも子供とは行けないし、ゼロ歳からのコンサートは、普及しているといっても、やはり限られているそうなのです。

「子供と一緒に行ける音楽会に行ったのだけど、すぐに追い出されちゃった。」

などという声も聞こえてきました。

 

子供に本格的なクラシックコンサートを!

というのももちろんですが、本音は母親(私自身は子供はいませんが)特に、育児中の母親の楽しみの場、癒しの場を作りたい!という気持ちが次第に沸き起こってきたことが「音戯噺:おとぎばなし」の発端なのです。

 

母親になるって本当に身を削っているのだなぁと実感するとともに、私ができるとことはいまは、音楽を生み出すこと。

私の唯一できることはピアノのだけなので、こんな友人たち、そして母親たちになにか貢献できたらなぁと思ったのです。

 

 

 

音戯噺:おとぎばなしができるまで 2

 ドイツに10年以上も住んでいると、「日本に帰る」ということは、留学を決めたときより勇気が必要でした。

ドイツへ向かうときは、「あなたは一度も振り向かなかった」といまだに言われるのですが、ドイツから日本へ帰国することは、何か特別な理由がない限り思いつきませんでした。ドイツなんてもう居たくない、日本に帰りたい、と泣いていた頃の私は、どこを探しても居ないのです。

 

ところが、2010年9月末に祖母が倒れたという知らせを聞いたとき、私の中から「帰国しなさい」という声がしました。

 

日本に居ればいつでも、「日本人」として守られているのに、私の居場所は日本にはないように思っていました。

私には名前はあるけれど、それはどこか遠くから呼ばれているように現実味がなかった。

日本に居るときは、私はいつもお客様。

家族も友達もいつも大歓迎で迎えてくれ、私は調子に乗っていたのです。

冬には日本に旅行へ行こう、というような感覚で。

 

私はpianoというパートナー以外に頼れる椅子はないのですが、それでもいろいろな人に支えられてドイツで生きてきました。

ドイツでずっと生きていこう。

祖母が倒れたというニュースは、私のその決心をぐにゃぐにゃにつぶしていったのです。

 

急に私の守りたいものは何なんだろう。愛したいものは何なんだろう。ここでピアノを弾くことは誰を幸せにするんだろう。今すべきことは何なんだろう?

祖母に会いたい。

今すぐに帰国しよう。

そして、祖母の側に居よう。

 

 

ところが2011年。帰国を決めて家もすべてなくした後に

東日本大震災がおこりました。

 

祖母は奇跡的に回復し、歩けるようになったのに

私はなにももたない異邦人としてドイツに居ました。

 

「あなたの居場所は日本にないわよ。」

 

山のようなダンボールは千葉の実家で震災に遭ったのに、私はそこに居ないのです。

 

私はその日からどこかに眼球を落としてきてしまったみたいに彷徨いました。

 

なにもかもが、クリアに見えない。

 

なにが真実なのか、真実とは何なのか。

 

それから、身を切られる思いでドイツに居ました。

 

「あなたにはわかんないわよ。何にも脅えていなくていいあなたには。放射能?そんなのわかってるわよ。外国に居るあなたに、日本のこととやかく言われたくない。」

 

ドイツに両親を呼び寄せている友達もいました。

絶対に日本には行かないでくれ、と友人に懇願され

私は皮膚を掻き毟った。

私の国なのに。

 

結局、小さな活動を続けました。

微々たるコンサートの売り上げを日本に送りました。

 

日本に帰国したとき

 

日本の知人は震災を忘れたように笑っていました。 

九州に行ったらもっと、どこかの国のお話のように

そうだよねぇ。大変だよねぇ、と頷かれました。

誰も知らない国のことのように、その話はもう飽きたという人もいました。

 

私は怖かった。

なんだかとても怖かった。

 

人間というのはなんだろう。

日本人という繋がりはなんだろう。

私は誰なんだろう。

 

ここはどこなんだろう。

 

 

 

ケルンのドームの前で歌った「ふるさと」

荒城の月を弾いた後

泣き腫らした目で駆け寄ってきた

イタリアの女性

狂ったように折り続けた鶴

外に居た我々は 

眼球をなくして彷徨った

そして今 日本に居て

弾く

今居る場所こそが 

私の国だと思ってしまう

どうしようもない私の身体

 

戻ってきても眼球はまだここにはない